LOGIN鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。
――タマは、どうしているだろう……。 目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。 そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。 自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。 匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。 ――タマは、どうしているだろう……。 目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。 そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。 自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。 匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持った珠希と目が合った。 「あ……」 雪臣は足を止めた。珠希も、そのままこちらを見ていた。 「……具合は、平気?」 「……ああ。その、なにか、食べたい」 「じゃ、用意する。これ、肉じゃがだけど、大丈夫?」 雪臣が頷くと、珠希が鍋に蓋を戻した。台所に三板の姿はなかった。雪臣が周囲へ目を向けると、彼女が続けた。 「三板さんは、さっき本邸へ行ったの」 掃除と下準備を済ませた三板に代わり、あとは珠希が引き受けたという。雪臣が起きたら、食事がとれそうか聞こうと思っていたらしい。 ダイニングの椅子に腰を下ろすと、コンロの前で鍋の火加減を調整する珠希の姿が見えた。 ……何も言わずに食べて戻るわけにはいかない。膝の上で、右手を握った。 「タマ……今朝は、申し訳なかった」 珠希が振り返る。 謝ればすぐに理解してもらえるなどとは思っていない。珠希は何も返さず、こちらを見ていた。雪臣は握った手を緩め、頭を下げた。 「きみを傷つけた」 顔を上げると
珠希がリビングへ戻ったあと、雪臣は昇降機に腰を下ろした。 左手の杖を持ち直し、右足の位置を整える。椅子がゆっくりと動き始めても、階段の前に立っていた珠希の顔は、頭から少しも離れなかった。 座ってしまえば、いつもと同じだった。これまでも、この椅子には何度も助けられている。風邪をひいているならなおさら、自力で階段を上るより楽なのは分かっていた。 ただ、好きな女性の前でどうしても座りたくなかった。 ――いい加減にしてくれ……! 自分の声を思い出す。あんな声を出すつもりではなかった。珠希を責めようなど、これっぽっちも思っていなかった。ただ、もうそこには触れないでほしくて、胸の痛みに耐えきれなかった。こちらを見たまま動かなくなった彼女に、『できることまで奪わないでほしい』とまで言った。 彼女は、雪臣から何かを奪おうとしたわけではない。きっと、今朝、温かい飲み物を差し出してくれたときと同じ気持ちだった。それなのに、あんな態度をとられて、彼女にはどう映っただろう。 嫌な思いをさせたに決まっている。 二階に着き、昇降機から立ち上がっても、すぐには足が進まなかった。 ――また我慢させてるのかなって、だから、怖かったの……。 珠希のあの言葉に、何も答えられなかった。 大きな声を出したことだけを謝り、それで終わりにしてしまった。彼女の頬に触れてしまったあの夜と同じだ。また、逃げたのだ。 自室に入り、扉を閉める。休むために上がってきたはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれなかった。イーゼルの前で足を止め、掛けていたカバーを外した。 描きかけの珠希が、そこにいた。 椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。イーゼルの隣の台から鉛筆を取り、まだ描き込んでいない服の袖に線を足した。手首の近くにできる布の皺を、一本ずつ重ねていく。 ……今朝も、珠希が隣にいてくれて嬉しかった。平日の夜は、帰宅しても長くは話せない。今日は何をしたのか。そんなことを聞いているうちに、もう休む時間になる。 でも今日は、一緒にいられると思っていた。 鉛筆が止まる。紙の中の珠希を見ていると、泣きそうな顔で膝掛けを胸元へ引き寄せた
― 11月の連載予定日 ―(曜日)月・火・木・金・土・日●21時37分(日本時間)頃●各1話ずつ更新されます。水曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。花絵 ユウキ
休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」 体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。 三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」 差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。 珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。 けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。 だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。 今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」 雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。 膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。 雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」 彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。 やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」 珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏
昼休みが近づいたころ、雪臣から連絡が来た。 ――仕事について少し話したい。昼、時間は取れるか。 珠希は画面を見つめた。昨夜、玄関で差し出した手を、彼は取らなかった。自分で家に上がれるのだから、手を借りる必要はなかったのだろう。そう思いながらも、引っ込めた指先の行き場がなかったことを覚えている。 このところ、二人の距離が少しずつ変わってきているような気がしてならなかった。二人は契約結婚で、雪臣に特別な気持ちがないことは理解している。それでも、婚姻届を出した日のことも、夜のソファで何気なく話す時間も、いつしか珠希にとって宝物のような記憶に変わっていった。 だからこそ、小さな変化が不安につながる。 「雪臣くん……」 けれど今日は、雪臣のほうから声をかけてくれた。返信しようとすると、もう一通届く。都合が悪ければ別の日でも構わない、とあった。珠希は慌てて『大丈夫』と返した。行き先は、以前二人で食事をした洋食屋に決まった。 + + + 店に入ると、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂いがした。窓際の席へ向かい合って座る。雪臣はメニューを開いたまま、なかなか何も言わなかった。 「私、またナポリタンにしようかな。雪臣くんは?」 「……ああ。同じものを」 そういえば、前に来たときも、きっかけは雪臣が急にナポリタンを食べたいと言い出したからだ。思い出して笑うと、彼が顔を上げる。 「また一緒に来られて、良かった」 珠希の声は、後ろに流れるチャイコフスキーの花のワルツに溶けるように消えた。 そのとき、雪臣の唇がわずかに動いた。けれど声にはならず、やがて「ああ」と答えると、メニューへ視線を戻した。注文が済んでからも、雪臣はしばらくメニューを片づけず、ページをめくっては眺めていた。 珠希は水を一口だけ飲んだ。仕事の話だとわかっていても、忙しい彼が時間を作ってくれたことが嬉しかった。 「雪臣くん。それで、仕事の話って……」 「ああ。この前の手帳、持っているか」 「あ、うん。持ってるよ」 鞄から手帳を取って差し出すと、雪臣がようやくメニューを脇
珠希がまだ何か言いかけていたことに気づいていた。それでも、扉を閉めてしまった。 もう遅い。休んでほしかったのは本当だ。けれど、今の態度では、追い出したようなものだろう。もう一度扉を開けて声をかけようかとも考えたが、やはりいまは珠希と顔を合わせるのを躊躇った。 浴室には、湯気が薄く漂っている。洗い場の中央に、背もたれと肘掛けのついた椅子が置かれていた。 目を伏せ、そっとマリッジリングを外した。失くさないように、入浴中は洗面台の隅にある小皿で保管する。ちりん、と陶器の音が小さく鳴った。 ……会合の途中から、家に帰りたくて仕方がなかった。珠希に会いたかったのだ。 時計を確かめながら、彼女はもう眠っているだろうかと考えていた。 帰りのタクシーで連絡したときに、彼女がまだ起きていると分かって、少しでも話せることを期待した。 帰宅してすぐに、珠希は玄関まで出てきて、コートを受け取り、水まで用意してくれた。そのひとつひとつが嬉しかった。 それなのに、珠希に準備されていたこのシャワーチェアを見たとき、礼を言うことさえできなかった。 何も言えずに扉を閉め、脱衣所にひとり閉じこもったのだ。 雪臣は服を脱ぎ、浴室へ入って椅子に腰を下ろした。肘掛けに手を添え、右足の位置を整える。この椅子には、これまでも助けられてきたし、これがなければ自分で体を洗うことすらできないのは事実だ。 シャワーの音を聞くうちに、病室の白い天井を思い出していた。 ◇ ◇ ◇ ……まだ、小学校にすら通っていなかった、ずっと前のことだ。 氷室メディカルセンターのベッドの脇に置いていた画用紙を取ろうとして、上体を起こした。あと少し手を伸ばせば届く。その前に、様子を見に来ていた看護師が、画用紙を持ち上げた。 『これ? 取ってあげるね』 胸元へ置かれた画用紙を、両手で受け取った。 『これくらい自分で取れるよ』と言おうとしても、口から出てくる言葉は、いつも『ごめんなさい』だった。手間をかけさせてごめんなさい。長い入院生活の中、いつしかそう思うようになっていた。そんな雪臣を誰も責めなかったし、看護師は笑って、枕の位置まで